かん吉との日々

イヌとの生活を通して考えたことなど

縄張り,マーキング

かん吉 (柴犬ミックス,♂) を散歩させると必ずあちこちでおしっこをする。いわゆるマーキング。
 
他のイヌがおしっこしたところに上書きするかのようにおしっこをかける。こちらとしてはジョギングがてら散歩できたらよいのだけど,少し走り出したところで,すぐ止まってしまう。ほとんどマーキングのために散歩しているようなものだ。最後の方なんて,もうほとんど出ないのにそれでもしようとする。
 
マーキングは,縄張りを守るための行動といわれる。縄張り防衛をするのは哺乳類だけでなく,鳥類など,幅広い動物種で見られる。鳥はさえずりで縄張りを主張する。さえずることができなくなると他の個体に侵略されてしまうという。
 
なぜ動物たちには縄張りというものがあるのか。究極要因 (機能) については,以下のように説明できると理解している (最近の研究ではどうなっているかは把握できていない)。
 
お互いのリソース (食糧や繁殖相手) をむやみに奪い合って傷つけあうような個体たちは,争いで傷を負うなどのコストが大きくなる。それよりは,互いの持ち分を何らかのルールで決めて尊重し,それが侵されそうになったときだけ戦う方がよい。「縄張り」にはそういうルールとしての機能がある。
 
相手の縄張りにはむやみに侵入しない。自分の縄張りに侵入されたら必死で戦う。こういう戦略は,進化ゲーム理論という分野ではタカ・ハトゲームという問題で扱われ,「ブルジョワ戦略」と呼ばれる。そういう形質を持つ個体は無用な争いが少なくなり,かつ自分のリソースもある程度確保できるので,常に争いを仕掛ける個体 (タカ戦略) や常に争わずに相手に譲ってしまう戦略 (ハト戦略) に比べて適応度が高くなる。
 
しかし,飼い犬がマーキングをして縄張り防衛をすることにはそういった機能があるのだろうか。ちょっと疑問だった。
 
飼い犬はヒトが餌を与えてくれるし,その権利を侵略されることもないのではないか。イヌが猟の手助けをするように人為選択を受けてきたことを考えると,ちょっと歩いただけでマーキングのために止まってしまうような形質はむしろ残りにくかったのではないかとも思う。
 
これも祖先のオオカミの名残なのだろうか。
 
人、イヌと暮らすー進化、愛情、社会 (教養みらい選書)』によると,スリランカの農村部では,ほとんどのイヌに特定の飼い主がいなかったという。飼い主がはっきりしない放浪イヌの比率が9割にも上るのだとか (p.170,寿一先生による解説)。そういうことを考えると,飼い主がしっかり決まっていてリードでつないで散歩し,餌を与えるようになったのは人類-イヌ史から言えばごく最近のことなのかもしれない。
 
飼い主もはっきりしない環境では,イヌは居住空間内をある程度自由に行き来できたのだろう。イヌの間ではある程度縄張りが決まっていて,主張したり,侵略されていないか確認する必要があったのだろうか。
 
マーキングの頻度の性差や犬種差も気になるところ。

雪を振り落とす

雪が積もった。かん吉にとは雪が積もってから初めての散歩。
 
「犬は喜び」と歌にあるように,喜んで散歩に行っているようにも見えなくはない。少なくとも嫌がってはいないようだ。雨のときは散歩は嫌がるのだが。
 
その辺の枝葉につもった雪をいたずらでかん吉にかけてみると,背中に雪が乗るのだが,少しして「ブルブル」した。すると,体の雪が一瞬でキレイに落ちたので感心した。
 
この「ブルブル」(専門用語はあるのだろうか) は雪を振り落とす機能があったのか。そして毛質も雪が落ちやすいようになっているようだ。人間の頭に積もった雪はブルブルしてもそう簡単には落ちない気がする。イヌほどの速さではブルブルできないが。
 
イヌの毛の様子は犬種によってだいぶ違う。
 
最近読んだ,長谷川眞理子先生の「人、イヌと暮らすー進化、愛情、社会 (教養みらい選書)」によると,犬種はそれぞれ,人間のなんらかの活動に役立てるように人為選択をかけて作られた。長谷川ご夫妻が飼われているスタンダード・プードルは撃ち落された水鳥を回収するために作られたので,濡れた後の毛の渇きが早いという。
 
柴犬は毛質についてはおそらくオオカミとかとたいした変わらないのだろう。オオカミの毛に触れたことはないが,見た目的にはそう変わらないように見える。
 
そうだとすると,それは人為選択ではなく,自然選択で作られたものといえるだろう。体が雪に覆われて体温を奪われたり動きが制限されることもないようにできているのかもしれない。
 
ところで上で紹介した眞理子先生 (ご主人の長谷川寿一先生も著名な心理学者なので,下のお名前で呼ばせていただく) の書かれる文章のタッチはいつも軽快で読みやすく,引き込まれる。専門的な話でもすらすら読める。
 
学生時代に初めて読ませていただいたのは「生き物をめぐる4つの「なぜ」 (集英社新書)」だ。ご主人の寿一先生と記された進化心理学のテキスト「進化と人間行動」もとても面白い。
 
最近,Amazonの紹介で「人,イヌと暮らす」が出版されていたことを知り,思わずすぐに購入してしまったが,こちらも期待通りで引き込まれた。色々考えさせられることがある。今後もこの本を参考にいろいろ考えていきたいと思う。

先祖返り?

昨年からイヌを飼い始めた。
名前は,ここでは「かん吉 (きち) 」としておこう。

かん吉は柴犬のミックス。性別はオス。茶色の毛に黒が少し混じっている。保護犬となっていたのをボランティアの方からもらい受けた。

このブログでは,かん吉と生活していて考えたことなどを書いていきたい。大学で少しかじった行動生態学や心理学などの視点も少し交えつつ。専門家ではないので間違いも多々あると思います。ご容赦ください。

私はイヌを飼うのは初めてではない。実家では合計で3匹のイヌを飼っていた。そのうち1匹は私が実家を離れてからだったが,よくなついてくれた。かん吉は今まで付き合ってきたイヌとは何かが違う。

まず,イヌといえば飼い主に従順で,家に帰ったらしっぽを振ってお出迎えしてくれるものだと思っていた。かん吉はそんなことは全くしない。誰が家に帰ったところで,顔も上げようとはしない。名前を呼んでも振り向くこともない。

耳が聞こえていないわけではない。ご飯の到来を知らせる電子レンジの音や冷蔵庫の音がするとすぐそちらを見る。カメラのシャッター音や,拍手の音が嫌いらしく,それらの音がするとその場から離れようとする。

ヒトを避けているわけではないようだ。顔の周りをなでてあげるとしっぽを振ってその場にとどまる。喜んでいるように見える。自ら接近してくることもある。

ただし,飼い主とそうでない人の識別はできていないように思える。新しい人が家に来ても吠えもしない。吠えるのはエサをもらう前だけである。初めて会う人からでも,撫でられるとしっぽを振る。番犬にはならない。

いつもおとなしくて,誰に対しても「なつく」ので,周りの人からは「こんないい子いないね」などとよく言われる。確かにそうかもしれない。飼っていて困ることは少ない。しかし,単純に「いい子」で片づけてしまっていいのだろうか。

どうもイヌとしての基本的な性質を欠いているようにも思える。決してそれが悪いということではない。私も含め家族は皆,そんなかん吉を愛している。ただ,その性質の違いを理解したいのだ。

このようなかん吉の性格は経験を通して形成されたものだろうか。あるいは遺伝的なものだろうか。保護犬ゆえに,保健所に来る前の経験は全くわからない。ここでは遺伝的な要因について考えてみたい。

イヌはオオカミと共通の祖先を持つと言われている。というか,イヌとオオカミは生物学的には同じ種に分類されるらしい。

麻布大の菊水先生のグループの研究 (日本語の解説はこちら) によると,オオカミとイヌの行動上の特徴の違いは,イヌの方が飼い主と目を合わせることが多いということだ。

かん吉はエサがもらえることを期待したときくらいしかヒトと目を合わせることはない。顔を持って無理やり目を合わせようとしても,数秒としないうちに顔を動かして目をそらそうとする。

もしかすると,かん吉のそういう面はオオカミに近いのかもしれない。ダーウィンの「種の起源(上) (光文社古典新訳文庫)」(渡辺政隆訳) には,「先祖返り」という言葉がしばしば出てくる。そして「種」特有の形質のほうが,より大きい分類である「属」特有の形質よりも個体差が大きく,先祖返りしやすいということが述べられている。


オオカミもイヌも,イヌ属にあたる。ヒトと目を合わせるのはイヌという種特有の形質なのだと思う。かん吉は少し先祖返りをしているのかもしれない。厳密には「種」特有というよりは「亜種」特有なのだろうが,それならなおさら同種に部類される現在のオオカミに近くなるような変異が起こりやすいのだろう。

しかし,これはかなりいい加減な考察だ。もちろん,経験の影響も否定できない。今後,もう少し考えていきたい。