かん吉との日々

イヌとの生活を通して考えたことなど

好きな音?

以前の記事で書いたように,かん吉は苦手な音,少なくともその音を聞いたらそこから離れようとする音は色々ある。逆に,好きなのではないかとも思える音がある。
 
リビングにあるアップライトのピアノの音だ。
 
誰かがピアノを弾くと,かん吉はその椅子の横で座っていたり,寝ていることが多い。
 
ピアノの音自体が好きなのだろうか。単に座っている人の横にいるのが好きというのもあるかもしれない。かん吉はソファに誰かが座っていても寄ってくることがある。ソファに座りながら首を撫でてあげることが多いからかもしれない。首をなでられるのは好きなようだ。
 
しかし,もしピアノの音色自体が好きだとしたら・・・音楽には種を越えて心地よいと感じさせる普遍的な物理的性質があるという,夢がある話につながるのではないか。逆にいうと,音楽というものはそういう生物学的な性質に沿うようにできてきたともいえるのではないか。
 
今のところそんなことを言える証拠は何もない。そしてこれからも得られないかもしれないが,かん吉を見ながらそんな想像を膨らませてみてもよいかと思う。
 
もし音楽の協和音的な性質が好まれるとしたら,思いっきり不快な不協和音を弾き続けたらどうか。家族がいるときはまずできないので,一人だけのときにこっそり試してみたい。

人間だったら・・・

ご飯の準備をしていると,「早く出せ」と言わんばかりに大声でまくしたてる (吠える)。ご飯をあげても,散歩に連れて行っても感謝の意思も示さない。散歩とご飯の時間以外はほとんど家で寝ているだけ。
 
これがイヌではなくて人間だったらどうか。一緒に生活していて我慢できるだろうか。
 
こんなかん吉に文句を言う気にならないのは,かん吉がイヌだからだろう。イヌには仕事をすることや家の手伝いをすることは期待していないし (手伝いをするイヌもいるが),感謝してもらうことも期待していない。
 
そもそもかん吉は自分の意思でこの家に来たわけではない。こちらの都合で来てもらったのだ。かん吉からしたら,何をしても,何をしなくても文句を言われる筋合いはない。
 
しかし,人間だって同じじゃないかとも思う。
人間だって発達障害学習障害などのいろいろな理由で期待されるようには行動しない人,望ましくないとされる振る舞いをしてしまう人もいる。障害とまでいかなくても,何事にも個人差がある。イヌとヒトほどには違いはなくても,人間の間にだって遺伝的な要因や神経基盤に違いがあるのだ。
 
期待通りにいかないことで頭にきたりするのは,相手が自分と同じ「人間」であって,同じ原理で行動したり感じていると無意識のうちに仮定してしまうからではないだろうか。相手は違うのだということを認めることが,心穏やかに過ごすための第一歩かもしれない。そのためには個人差の存在を客観的に認識することも有益かもしれない。
 
そんなことに気づかせてくれる,かん吉に感謝。

苦手な音

かん吉には苦手な音がある。
 
最初から苦手だったのは,押すとキュッキュッと鳴るおもちゃの音。両手をぴたりと合わせて空気を入れ,キュッとするのも気になるようだ。拍手の音とか,破裂音系の音も嫌いかもしれない。
 
あとはカメラのシャッター音。スマホiPadでシャッター音を出して写真をとると,なぜか普段は入らないキッチンの方に向かって逃げようとする。これは我が家に来てから最初のうちはそうではなかった。子供が言うには,一時無理やり押さえて写真をとったのが嫌だったのだろう,ということだが,真相はよくわからない。
 
今ではスマホを出すだけでも逃げるようになってしまった。スマホを条件刺激とした恐怖条件づけが成立してしまったようだ。困ったもの。シャッター音が鳴らないカメラアプリを使わないといけない。
 
場にそぐわない音量の声を出されるのも少し苦手な気がする  (私もそうなので,自己投影かもしれないが)
 
ヒトでは最近話題になる,HSP (Highly Sensitive Person) と近いメカニズムがあるかもしれない。HSPは外界の刺激に人一番敏感な人のことを指し,先天的な気質だといわれているようだ。かん吉はどうだろうか。
 
自閉スペクトラム症 (ASD) でも感覚入力に対して過敏になるという話も聞く。聴覚刺激への敏感さにはイヌでもヒトと同様の個体差があるのかもしれない。

迷信行動?

普段は寝てばかりのかん吉だが,ご飯の前だけは人 (犬) が変わったように活発になる。ご飯を用意し始めると,リビングを反時計回りにぐるぐる駆け回りはじめるのだ。さらにご飯の到来が近づいて興奮すると,滅多に出さない大きな声で吠え始める。
 
我が家に来たばかりのときはそうではなかった。これは我が家に来てから新たに学習された行動なのだろうか。それとも家に慣れてきたことで元々あった習性が出てきたのだろうか。
 
ぐるぐる回るという点は,著名な心理学者であるスキナーが報告したハトの迷信行動を思い出させる。ハトを入れた装置の中で,一定の周期で機械からエサを出すようにする。ハトの行動とは無関係に,である。すると何羽かのハトは,エサを待つ間,ぐるぐる回ったり,床をつついたり,という行動を定型的にとるようになったのである。
 
この行動はエサを得るために必要ではないが,その行動をとった後にエサが与えられるということが繰り返されたことにより,それが「強化」されてしまったと解釈できる。ハトは自分が回ることでエサがもらえるという「迷信」を獲得してまったというわけだ。(本当にハトがそう思っているかどうかはわからないが。)
 
かん吉の走り回ったり吠えたりする行動も迷信行動といえるかもしれない。
 
あるいは,駆けまわったり吠えたりすることで実際にエサがより早くもらえるという随伴性が生じているのかもしれない。ご飯についてのすべての決定権を有する妻が,かん吉がそういう態度をすると急いでご飯をあげたがるからだ。そうだとすれば,「迷信」ではなく,本当に吠えればもらえる,という「正しい」信念を獲得したということになる。
 
かん吉が走ったり吠えたりするときはご飯あげることはやめて,そういった行動を「消去」してみてはどうかと思う。そして,ご飯は事前に準備しておいて隠しておいて,全く予期できないタイミングで与えるようにする。そうすれば,無駄に興奮することもなくなり,よだれを床にまき散らされることもなくなってよいのではないかとも思う。
 
妻は「かわいそう」と言って私のそういう意見は聞いてくれないので,試されることはないだろうが。

そんなに嗅覚は優れていない?

よく,イヌの嗅覚は優れているというけど,かん吉はどうだろうか。

自分のご飯には反応するけど,ヒトが食べるご飯は結構いい匂いがすると思うのに無頓着。

人、イヌと暮らすー進化、愛情、社会 (教養みらい選書)』によると,イヌの嗅覚はヒトの10万倍鋭いと言われてきたが,実は科学的根拠はないらしい (p.34)。

そういう主張のもとになったのは,19世紀フランスの脳科学者であったポール・ブローカの発言らしい。あの発話に関すると言われる脳領域の「ブローカ野」のブローカである。その後,その発言は科学的に検証されることもなかったのだとか。

確かに考えてみると,匂いのように強さを定量化しにくいものについての感覚が,単純に10万倍とか言えるのってちょっと怪しい。疑ってみるべきだった。まさに,「ぼーっ」と生きていては叱られる。

イヌについてだけでなく,世の中には,さも「科学的事実」と考えられているようなことが,実は大した科学的根拠はなかった,ということは結構あるのかもしれない。何事も,その由来を確認するようにしたいものだ。

視覚や聴覚に比べると嗅覚は定量的に研究することがさらに難しそうだ。味覚に比べても,嗅覚は関係する分子の種類やそれに対する受容体の種類が圧倒的に多い。「xx倍嗅覚が良い」,なんてそう簡単には言えないだろう。匂いの種類によっても違うはず。また,ヒトがワインやコーヒーの違いがわかるようになるように,学習によっても変わる。

かん吉はというと,大好きな肉のおやつをあげても,ちょっと目を離すとどこにあるかわからなくなって(見えるところに置いたはずなのに),違うところを探したり,あきらめてしまったりする。

目が悪いのか,鼻が利かないのか,はたまた根性がないのかよくわからない。目も鼻も悪いから飼い主も見分けられないのだろうか? 動物の認知を知ることは難しい。

傘がこわい

今日は朝から雨。
 
かん吉は雨が嫌いだ。雨が降っていると,家の中でもわかるようで,ケージの中から出てこようとしない。リードをつないで無理やり外に連れて行っても,すぐに戻ろうとする。レインコートを着せてもダメ。
 
特に,傘に対して強い恐怖を示すようだ。それがわかってからは傘はささないようにしているのだが,それでもダメ。雨と傘がむすびついてしまっているのかもしれない。
 
傘をさすときに「バサッ」とするのが特に怖いらしい。怯えた様子を見せて逃げようとする。「以前の飼い主に傘でひどいことをされたのだろう」とか家族は言っていたりもしたが,私はそうではないのではないかと思っていた。
 
人、イヌと暮らす』では,眞理子先生が愛犬のキクマルを飼い始めたころに,自分が「ご主人」であることを示すために傘を使ったエピソードが語られている。夫の寿一先生しか「ご主人」とみなしてないキクマルに対して何とかしたいと思った眞理子先生。傘をとってきて,キクマルの前でさっと開いたという。『ソロモンの指環』にあった,菜園を荒らすハイイロガンに対し,ローレンツの奥さんが傘を広げては閉じるということをしたらハイイロガンたちは逃げた,という話を思い出したとのこと。
 
最初はびっくりし,怪訝そうな顔をしていたキクマルだったが,傘の開閉を繰り返すと,だんだん怖くなったようで,尻込みしながら退却し,座り込んでしまったという。決して傘自体で危害が加えられたわけではない。かん吉もはじめはそんな感じだったのではないだろうか。(その後キクマルは問題なく良い子に育ったということだが,眞理子先生のねらい通りにはならず。こういうことが勧められているわけではないので注意してください。)
 
大きな黒い物体が「バサバサ」するという状況は,野生ではタカなどの猛禽類の到来を知らせる。イヌやその祖先のオオカミまではタカに捕食されていなかったかもしれないが ,ネズミなどの小型の哺乳類が捕食されていたのは間違いない。
 
地上を移動する哺乳類には,そういう大きくてバサバサする刺激を怖がるように遺伝的にプログラムされており,それが根強く残っているのかもしれない。ヒトやサルも生得的にヘビのような形を怖がるように。

「忠誠を誓う」感受期?

ふと,読みかけのまま本棚に並んでいたローレンツの『ソロモンの指環』を手にしてみた。

 
まだ読んでいなかった第10章にイヌに関する記述があった。
 
ローレンツはジャッカル系とオオカミ系に分けてイヌの特徴を論じている。『人、イヌと暮らす』(p.62) によるとイヌの祖先には複数の種があったという説は今では否定されていて,すべてのイヌの祖先はタイリクオオカミ一種であるとされているとのこと。ジャッカル系とオオカミ系に分けることはもはやあまり意味がないかもしれない。しかしそうだとしても,ローレンツの考察は参考になるかもしれない。
 
ローレンツによると,イヌがたった一人の主人に「忠誠を誓う」ようになるには「感受期」があり,それは「ジャッカル系のイヌ」では生後約8カ月から1年半の間に,「オオカミ系のイヌ」ではほぼ6か月目にあるそうだ (p.222)
 
そうだとすると,ジャッカル系かオオカミ系かはよくわからないが,推定年齢7歳で我が家に来たかん吉がそのような忠誠心を持つのは無理なのかもしれない。
 
イヌについての感受期がどの程度認められているかはわからない。その後の研究も調べてみたいところ。「刷り込み」で有名なローレンツなので,感受期を仮定したことには何らかのバイアスも働いていたかもしれない。
 
また,ローレンツによるとイヌが飼い主に示す愛情の起源には,二種類あるという。
 
一つは野生のイヌがその群れのリーダーに対していだく愛着。これはオオカミも有する特徴か。オオカミはヒトには愛着は抱かないが,同種であるグループのリーダーには抱く。それをヒトというまったくの別種の生き物に対して抱くようになったのがイヌ特有の特徴か。
 
二つ目は,本来なら子どもが母親に対して甘えるような愛着。野生型なら幼若期のみにごく短期間しか見られない体の構造や行動が,家畜化された家犬では一生涯保たれていることがあるようだ。ヒトの飼い主にはいつまでも子供っぽいイヌの方が好まれ,選択されたと考えることもできるかもしれない。
 
かん吉はそういう子供っぽさもない。これも保護犬ゆえの経験によるものなのか。あるいは生得的な『個性』なのか。真相はわからない。